散策【松姫と八王子千人同心】に参加して
大澤哲司(s43電気)
今回は、「松姫と八王子千人同心」のテーマで、一昨年の「武田勝頼最期の地を訪ねて」の関連第2部として、武田信玄の息女松姫と家臣団の足跡を訪ねるという歴史散策でした。
好天に恵まれた11月18日朝9時半、高尾駅前に集合した参加者全12名が櫻井さんの先導車と篠原さん、菅原さん運転の2台のレンタカーに分乗し、散策スタートしました。
散策ルートは、「八王子城址」→「金照庵跡」→「心源院」→下原刀鍛冶発祥の地→「中島登出生之地の碑」→「桂福寺」→「松信院」→「本立寺」→「宗格院」→「興岳寺」の順で回りました。
先ずは「八王子城址(ガイダンス施設)」へ、八王子城は北条氏政の弟である北条氏照の居城で豊臣秀吉の小田原合戦時に前田利家らに攻められ落城しました。
「金照庵跡」は、武田勝頼自害の後、松姫は兄勝頼の夫人が北条氏政の妹ということもあり北条氏照の支配下である八王子へ庇護を求め、大菩薩峠など深山を越えて檜原城を経て苦労の末、幼子3人を連れて甲斐脱出、最初に着いた場所の跡です。
この地に滞在中、松姫との婚約が破談になった織田信忠からの文が届き、迎の輿を待っていたが、「本能寺の変」で信忠が亡くなってしまい、またまた期待が裏切られてしまいました。
次に訪れた「心源院」は、松姫が尼になることを決心して剃髪して「信松尼」として身を寄せたところです。
「下原刀鍛冶発祥の地の碑」は、武州下原刀を製作する刀鍛冶集団が室町時代からこの地で刀剣を製作していて、丈夫で良く切れる刀と言われていたそうです。平成に復元した下原刀が高尾山薬王院に奉納されているそうです。
そして昼食の時間、街道筋の町中華屋で昼食となりましたが、この店はサービス満点で料理の量が半端ない多さに仰天、完食できずに店を出ました。
午後の始まりは「桂福寺」へ、天然理心流の初代と二代目のお墓がありました。近藤勇の処刑でこちらに類が及ぶことを恐れてこの墓を埋めたたそうですが、100年後に掘り起こしたそうです。 墓石は粉砕されていたため、復元した墓石には継ぎ合わせた跡が見られました。
「松信院」は、松姫の縁の寺で旧武田家臣たちの援助を受けて建立され、院号は松姫の法名「松信尼(しんしょに)」に由来するそうです。
「本立寺」は、千人同心で蝦夷の開拓に従事した原胤敦の墓がある。墓前に勇払(苫小牧市)から贈られた顕彰の石灯籠がありました。
「宗格院」は、津田塾設立の津田梅子につながる千人同心組頭の粟沢家の墓や蝦夷地開拓(勇払)に尽くした河西祐助の顕彰碑がありました。苫小牧市民会館にある銅像「夜泣きの梅さん」の夫とのことです。
「興岳寺」は、幕末の戊辰戦争で千人同心が日光勤番中に迫る官軍に対し、無血で明け渡して東照宮を戦火から救ったが、戦わずに明け渡した責めを受けて八王子の自宅で切腹した石坂弥治右衛門の墓所がありました。
いまの 、日光東照宮が残っていて世界遺産として登録され、世界中からのインバウンド客で賑わっていること思うと感慨深いものがあります、結果として、彼らは正しい判断をしたのではと思います。
そして、ここで今回の散策を終わりました。
今回の散策では、戦国時代から幕末に至る日本の歴史の中で、その後の武田家がよく分かる史跡巡りでした。私自身は八王子千人同心については勇払にそのような話があったなという程度の知識しかありませんでしたが、今回の櫻井さんの資料と現地を巡ってよく分かりました。
織田信長との関係と「本能寺の変」が松姫に与えた悲哀の物語。武田家滅亡と秀吉の小田原攻め、そして家康の関東移封。家康は、「三方ヶ原の戦い」で武田の強さを知っていたので、武田家の旧臣への処遇が武士団として甲州道警備のために八王子へ配置、これが八王子千人同心となったこと。
そして関ヶ原参陣、日光勤番、蝦夷地の開拓と警備、これが勇払(苫小牧)とのつながりとなったこと、同心たちの武芸としての「天然理心流」の広まり、その後の新撰組などが絡み合っていたことなどと知識を深めつつ、散策を楽しく無事に終えました。
今回も散策の最後に締めを全員で行い、喉と疲れを癒やしました。
最後に今回の散策の準備、たくさんの資料の作成、現地での解説をしていただいた櫻井さんありがとうございます。
また、今回車の運転をしていただいた篠原さん、菅原さん、狭い道路もあり大変だったと思います、ありがとうございます。