府中市は、東京都の多摩地域中部に位置する人口約26万人の市で、新宿から22km西方の東京都のほぼ中央に位置し、市名は西暦645年の大化の改新以降、武蔵国の国府が置かれたことに由来し、「国府の中」ということで「府中」という地名がついており、他の国府・府中と区別するため武蔵府中と呼ばれることもあります。

 鎌倉時代末期は合戦の舞台となり、江戸時代には甲州街道の宿場町として栄え、明治以降は郡役所が置かれるなど、歴史に由来する遺跡が多くあり、また、市域のほとんどが居住に適した平地でありながら、河川に野山、数多くの広い公園や農地緑地など、多くの緑を有し自然いっぱいの“まち”です。

 多くの歴史的な見どころの中から数か所と東京競馬場を思いでと併せご紹介いたします。

 

大國魂神社と「くらやみ祭り」

 京王線 府中駅南口から徒歩5分のところにあり、武蔵国の総社で東京五社の一社です。また、武蔵国の一之宮から六之宮までを合わせ祀るため、「六所宮」とも呼ばれています。

 当社の創建は景行天皇41年(西暦111年)55日と伝えられており、大化の改新の際に現在の場所に国府を置いたと言われています。源頼朝が妻の安産祈願をし、また源頼義と義家が奥州戦に向かう際に戦勝を祈願したなどの伝承があります。例大祭は、東京都指定無形民俗文化財に指定されている「くらやみ祭」で、関東三大奇祭の一つに数えられています。

 初詣には多くの参拝客が訪れ、参道中央を人波に任せのろのろと進んでいると、警備の若いおまわりさんに「脇を行っても“ごりゃく”は同じですよ」と言われたのが思い出されます。

 

分倍河原古戦場

 京王線 中河原駅より南西に徒歩約10分のところにあり、分倍河原の戦い(ぶばいがわらのたたかい)が行われた合戦の地で、鎌倉時代後期の元弘3年(13335月、上州(群馬県)に討幕の兵を挙げた新田義貞は、鎌倉幕府軍を打ち破りながら南下、5月16日府中の分倍河原(ぶばいがわら)で北条泰家率いる幕府軍を下し一気に鎌倉に攻め込みました。「太平記」によれば、このときの新田軍は10万、対する幕府軍はこれをやや上回ったと記されています。

 鎧(よろい)姿の騎馬武者が旗指物をなびかせて鬩ぎあったのでしょう。昨年7月末に散策で訪れた相馬野馬追を思い出しながらの筆述でした。

 

武蔵府中熊野神社古墳

武蔵府中熊野神社古墳
武蔵府中熊野神社古墳

  JR南武線 西府駅より北に徒歩約10分、甲州街道(国道20号)沿いにあり、飛鳥時代の7世紀の中頃(今から約1,350年前)に築造された古墳です。四角い墳丘の上に丸い墳丘が重なった形で、日本国内でも3例しかない上円下方墳(じょうえんかほうふん)という貴重なもので、他の2例(奈良県,静岡県)が7世紀後半~8世紀前半とされるのに対し、この古墳は7世紀前半と判明し、上円下方墳では国内最大で、最古級の古墳です。2005年7月に国指定の文化財(史跡)に指定されています。

 

東京競馬場(府中競馬場)

 京王線「府中競馬正門前駅」から専用歩道橋にて正門まで徒歩約2分、JR武蔵野線/南武線「府中本町駅」臨時改札口から専用歩道橋にて西門まで徒歩約5分のところにあり、収容人員は約22万人でスポーツ施設としては、アメリカのインディアナポリスサーキット場の25万人に次ぐ世界第二位の規模で、これまでの最大入場者数は なんと、196,517人(1990年 日本ダービーで記録)と言われ、新馬戦から日本ダービーやジャパンカップなどのG1まで幅広いレースが開催されている競馬場です。

 最終の4コーナー約100mを過ぎたころが2m余りのくぼ地になっており、平地で観戦すると、一瞬馬群が消え、首を上下に大きく振りながら坂道を駆け上がり次第に姿を現す様は圧巻です。

 当競馬場は馬と触れあえるイベントが開催されたり、日吉が丘公園、競馬博物館があったりと、競馬以外の楽しみも用意されているため多くの家族連れの姿が見られます。

 随分以前ですが、実家や近所また親戚の生産馬がG1レースに出走したこと、さらに、田舎で近所の蓑田隼人騎手がオンワードガイやヤマブキオー等に騎乗し出走等、若干競走馬に興味が有ったため、たまにG1レース観戦に訪れひたすら奉仕したことが思い出されます。

 現在は府中本町駅から西門まで専用歩道橋になっていますが、以前は住宅の間を通る道幅3m弱の狭い道路でした。この道路脇のアパートに住んでいましたが、G1レースに限らず朝は6時頃から来場者の姿が多く見られ、レース終了ともなると年末のアメ横のごとく帰宅する観客で道一杯になり、1時間程外に出られずひたすら我慢を強いられたことが、今では懐かしい想い出になっています。

 

  • 2024年3月10日
  • (記:吉田 秀夫 電気s39)